中小企業診断士 馬場正博
人を大切にする経営が注目されています。
法政大学院の坂本光司元教授が提唱し、「日本で一番大切にしたい会社」シリーズの書籍(全8巻)で有名になりました。毎年、「日本で一番大切にしたい会社」大賞で、個性的で優れた経営をしている会社が選ばれ、2024年までの14年間で215社が表彰されています。
この賞の応募条件は、過去5年間で、リストラをしていない、重大な労災がない、不当なコストダウン等を取引で強要していない、法定以上の障がい者を雇用している、営業黒字で納税責任を果たしている(天災等の影響は除く)、下請法等の法令違反がないことです。一見当然の条件のように思えますが、多くの企業にとっては容易なものとは言えません。
最近は、人的資本経営、健康経営、エンゲージメント経営、ウェルビーイング経営など、社員を重視する経営手法が広まっています。背景には少子高齢化による人手不足がありますが、従業員を大切にすることが、会社の生産性向上につながるという研究結果が知られてきたことも一因でしょう。Google社が調査では、従業員の心理的安全性や社員同士の信頼感、各自の仕事の意味やその意義が明確になっていることなどがチームの生産性を高める重要な要因であることが判明しています。また、厚生労働省の調査でも、従業員の「働きがい」と労働生産性は正の相関関係があり、安心して快適に「働きやすい」職場環境の整備が必要であるとされています。
慶應大学で幸福学を研究している前野教授は、幸福感の高い社員の創造性は3倍、生産性は31%、売上は37%高いという調査や、従業員が幸せな会社は企業価値、株価、利益率が高いといったデータを示しています。また、幸福の4因子が、①自己実現と成長、②つながりと感謝、③前向きと楽観、④独立と自分らしさであるという研究結果から、社員の働く環境を整えることが企業の業績に関わる課題であることを裏付けしています。
では、社員を大切にすれば生産性は向上するのでしょうか?
それは、必ずしも真実とは言えないようです。日本で一番大切にしたい会社として紹介されている会社は、いずれも生産性を上げる目的で社員を大切にしているのではなく、経営理念を実践した結果、社員と組織の生産性が高くなっていると考えられるためです。
そこで実践されているのは、社員とその家族、外注先や仕入先、顧客、地域社会、株主、の幸せを追求する五方良しの経営です。また、人を大切にする経営で重要なのは、「やり方」ではなく「あり方」だ、と言われています。
その良い例が、「かんてんパパ」のブランドで知られる食品製造販売の伊那食品(長野県伊那市、従業員545名)です。「いい会社をつくりましょう」という経営理念のもとで、高い利益率や急激な事業拡大を追求せず、地道で着実な成長を重ねる「年輪経営」で人を大切にする経営を実践しています。本社の敷地は緑豊かな公園となっており、地域住民の憩いの場となっていますが、そこは社員の方々が自主的に清掃や植栽の維持、管理をして美しく保たれています。秋の落ち葉が積もる頃に清掃の様子を見学させていただきましたが、たくさんの社員がチームワークよくテキパキと清掃作業されている様子は、テーマパークの清掃専門職のようで、業務時間外の活動にはとても見えないものでした。社員の方に話を聞くと、そうした活動が「他人事」ではなく「自分事」になっていて、経営理念が浸透し、会社の想いを社員が共有していることが実感できました。
人を大切にする経営で成功している会社は、経営理念やクレド(従業員の行動指針)を重視しています。会社の生産性を高めるために、社員を大切にすることは必要です。しかし、それだけでは不十分です。自社のあり方、経営理念として人を大切にする考え方が根底にあることが重要なのです。実際に、そこに気づいて会社の経営理念を見直し、会社を変革し、受賞に至った企業も少なくありません。そうした社長に聞くと、理念の浸透と変革には苦労や困難は絶えず、実現に10年かかったという話でした。経営者には強い信念と覚悟、忍耐力が求められるようですが、避けて通れない道なのかもしれません。
逆説的な問いになりますが、自社の社員を大切にする理由と、自社のあるべき姿について、あらためて考えてみてはいかがでしょうか。
以上